SNSの更新が続いた試しがない。他人のオシャレな投稿をみては羨ましく思い、アカウントを作ってみるが、数個ほど投稿したら、すぐに頓挫してしまう。投稿までいきつかず、発信すること自体をためらう時もある。誰かを傷つけていないか、私が発信することに果たして価値があるのか、頭の中が不安という文字に埋め尽くされ、そのままスマホを置いてしまうのだ。 とにかく反応が怖い。
SNSの良いところは、フォロワーがいなくても投稿すれば誰かしらが必ず見てくれるところであるが、私にとっては些か煩わしさや恐怖を感じてしまう。まるでマンモス高校で過ごしている隠キャのような気持ちである。 周りを見渡したくなくても、イケている美男美女、スポーツで輝いている人。若い時から才能を見出しているクリエイター、親が金持ちの友人が目につく。教室の隅っこで、ひっそりと読書をしている隠キャの私にとって、その輝きは眩しい。そしてどれだけ息を殺していても、私が教室内で動けば、話せば、誰かがチラッと見ている。それが余計自分を動けなくする。
誰かが「いいね」をつけてくれるのは嬉しい。でもその人にいいねを”返さなきゃ”と思ってしまう自分もいる。本当にいいなと思った時もあったはずなのに、次第に反応がシステム化されていく「いいね」は、お昼休みに決まったグループで机を寄せ合い、お弁当を食べ続ける女子グループを思いだす。 多種多様の人が集まるSNSという学校で、私は生徒で言うと三日で登校を諦め(投稿だけに)、家に引きこもった不登校児なのだ。
先日、村山由佳さんの「すべての雲は銀の…」という小説を読み終えた。不幸に見舞われた大学生の主人公が東京を離れ、長野で住み込みバイトをしながら自分を癒していく物語である。 SNSに向いていない私にとって必要なのは、長野のような、だだっ広い大地や海なのかもしれない。(長野は海なし県だけど)
決まったルールのないインターネットという大きな海に、ぷかぷかと浮輪を浮かべながら、太陽に向けて、誰ともなしに語りかける。そしたらもしかすると、自分でも予想しないような漂流物にぶつかるかもしれない、ぶつからなくてもそれはそれでいいのだけど。 少し元気になったら、時々は大陸に戻りたいなとも思う。

